『灯りが残るほうへ』(『静かな街、静かな声』最終章)

 冬が静かに訪れる頃、

 Lampaの居間には、今年も手帳と茶器、そして少し背中を丸めたふたりの姿があった。

 

 「この手帳、もうすぐ書き終わるね」

 カタリナがふと呟いた。

 

 「書ききったというより、ページが“時間に追いついた”感じがするな」

 孝一が湯気の立つカップをふたり分、そっとテーブルに置いた。

 

 2029年の年末、ふたりは静かに**“生活の棚おろし”**を始めていた。

 

 

 

 かつての生徒たちは今や自分の場を持ち、

 誰ひとりとして派手な名声を求めることなく、

 “静かな灯り”を次の誰かにそっと渡す役目を担っていた。

 

 ふたりがいなくなっても、それぞれの暮らしにその“姿勢”は残っていくだろう。

 

 

 

 翌年の春、カタリナはふと体調を崩した。

 大病ではなかったが、回復には時間がかかると医師に言われた。

 

 その知らせを受けた孝一は、食事を工夫し、歩く速度を揃え、

 会話の回数を少し減らし、その代わりに手を握る時間を増やした。

 

 ある日、カタリナが言った。

 

 「ねえ孝一、私ね、灯りって、“身体がいなくても残る”ものだって気づいたの」

 「それは、“記憶”ってこと?」

 「ううん、“生活”のかたちそのもの。

 私たちが教室で過ごした静けさは、きっともう“誰かの一部”になってる」

 

 孝一は小さくうなずいた。

 「じゃあ、僕らは“灯して、手渡した”ということだね」

 

 

 

 それから数ヶ月、Lampaの扉は開かなくなった。

 それでも、ときどき若者が訪れ、郵便受けに小さな手紙をそっと入れていった。

 

 そこには、こう書かれていた。

 

「Lampaがあったから、“急がなくてもよい人生”を選べました。」

「“ただいるだけでいい”という言葉が、今も私を支えています。」

「私も、火を分けられる人になりたい。」

 

 

 

 その年の秋。

 カタリナはゆっくりと、最期を迎えた。

 まるで、静かな音楽が終わるときのように。

 

 孝一は、彼女の手を握ったまま、こうつぶやいた。

 

 「あなたが教えてくれた“暮らし方”は、

 僕だけじゃなく、世界中に残ってるよ。……ありがとう」

 

 それは涙ではなく、“感謝だけが残る別れ”だった。

 

 

 

 数年後、孝一は日本に一度戻り、

 Lampaの記録と“灯りの地図帖”を、母校の図書館に寄贈した。

 

 「これが、僕たちの“声にならない記録”です」とだけ伝えて。

 

 最後の旅を終えたあと、孝一は再びプラハの家に戻った。

 あの日のままのベンチ、ゆれるカーテン、薄い木の香り。

 それが、彼にとっての“最終章の居場所”だった。

 

 

 

 そして、ある冬の午後。

 

 彼は、Lampaの居間で息を引き取った。

 差し込む光のなかで、紅茶の香りがまだかすかに残るテーブルの横で。

 

 誰にも看取られなかったが、

 看取られる必要のない人生だった。

 

 ふたりは、静けさのなかで生まれ、静けさのなかで終わった。

 

 

 

 

【灯りは、残る】

 

 

「人はやがていなくなる。けれど、

 その人が灯した“時間の姿勢”は、

 誰かの生活の中で、今もそっと息をしている。」

 

 

 

 

(完)